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亡き心友と私の整体生活

亡き心友と私の整体生活

東京大学経友会「経友」No.115号(1989年10月)に掲載
古川 彰久

私の大学生活四年間で多くの時間を費したのは寮生活(三鷹寮と井之頭寮)と柔道部生活
でした。特に柔道部には初心者で入部し、強くなれなかったのが残念ではあるが、
マネージャーを務めたりして四年間を過した。この結果得たものは素晴しい友人であり、
立派な先輩・後輩です。私の人生の節々で適切な御指導や御助言を受け、又、何かと
啓発されることが多く有難いことと感謝致しております。ただ非常に残念なことは一緒
に柔道をやった同期生が若くして亡くなり、それも何故か経済学部に籍を置いた友人が
多いことです。昭和三十八年十月に主将の湯沢章弘兄が亡くなった。勇猛果敢、一時
沈滞しかけた柔道部を率先して厳しい修行の場と変え、最終学年では七大学戦優勝の
原動力となった。ケガが多く悲愴感が漂っていたが、類まれな体格と気力で大いに活躍
が期待されていただけにショックは大きかった。昭和四十二年三月には副将格の
妹尾栄三兄がなくなった。私にとっては一番親しい友人であり、私の人生に大きな影響
を残しました。昭和四十七年三月に米国で亡くなった蔵原醇兄は駒場時代同じ初心者で
受身から練習した相手です。昭和五十二年十一月に負けず嫌いで頑張り屋の石井雅弘兄
が、更に昭和六十一年十月には温厚篤実な大井田昭蔵兄も亡くなった。同じ柔道部でも
この様に多くの仲間を若くして亡くしている学年はほかにはありません。誠に淋しい
限りです。
妹尾の没後、同期生が湯沢・妹尾両兄の追悼集を出版したが、妹尾に関しては、後から
述べる事情があり、彼のことを想うとこみあげてくる無念さと後悔とで、とても文章を
書く気持になれなかった。しかし既に二十二年も経ち、私なりにひと区切りつけたく
思い、編集者からのお誘いを受けたのを良いことに、共通の友人が多い本誌に、妹尾の
ことや彼との関わりの深い私の整体生活につき報告させていただきたい。
私が入学した昭和三十二年当時は柔道が盛んで新入部員は百人を超える程で、その中で
湯沢や妹尾は既に弐段を有し、私達初心者の近寄りがたい存在だった。妹尾は二年生に
なり、家庭の事情から三鷹寮へ入寮してきた。彼は身体は小柄だが、柔道の技は鋭く
よく大男を投げとばした。ひと廻り小さい体格の私には彼の柔道はアコガレだった。
柔道の往き帰り行動を共にすることが多く、つき合う程にその人柄にひかれた。私達は
よく議論したが、とかく私の書生っぽい意見に対し、彼の現実を見据えた冴えた意見は
柔道のきれ味に通ずる感があった。又、一方で他人の意見に耳を傾け、細かい心くばり
のできる人物であり、回りの誰からも好かれた。妹尾と一緒に専門学部では井之頭寮へ
移り、行動を共にすることが多く、大いに啓発されたし、何でも話し合える得難い友人
でした。卒業後も勤務地は異なってもよく往来したし、湯沢が亡くなる時も共に黒崎へ
かけつけ涙を流し、お互に身体だけは大切にしようと話し合った。昭和四十一年の正月
には私のお茶の水の下宿から、妹尾と一緒に七徳堂の早朝寒稽古に参加した。この時に
は仕事で遅くなったりして次の朝が起きれず半分位しか参加できなかったが、お互に
あまり無理はきかないなと笑ってすました。二人とも体質的に似たようなところが
あって、合宿中など疲れやすく、疲れると口が荒れたりして食欲がなくなるのでした。
その年の七月初め頃、突然妹尾の友人で医者のF氏から連絡があり、妹尾が体調をこわし、
柔道部の先輩M氏が居られる東大病院へ入院させたとのこと。早速見舞いにいった。
しばらくしてM先生が検査結果を御家族と親しい友人に話された。「リンパ性白血病で
今の医学水準では長くても九月迄持てば良い方で、現在の状態は一旦良くはなるが、
今度悪くなった時が最期であろう。医者の立場として、たとえ見込みがなくても最期迄
入院させて治療すべきだとの意見もあるが、見込みのないものをベッドに縛りつけて
おくよりも、一時良くなった間に本人にとって一番良い過ごし方を回りの人で考えて
やった方が良いのではないか」との思いもかけない厳しい話でした。
当時私は社団法人整体協会の野口晴哉先生から整体法(本来人間に備っている自然治癒力
を活発にする方法)の指導を受けていた。私の母が数年前迄薬がなくては生活ができない
状態でしたが、野口先生の指導で薬を全く使わなくなり、見違える程元気になった。
私は当時会社が忙しくパテ気味で体力的にも不安感があったので関心を持ち実践を始めた
ところでした。私としては自信はなかったが、白血病(彼の場合原爆は関係なかった)が
自らの生命を自ら破壊するものだとすれば、自分を生かそうとする力と滅ぼす力との
バランスを変えるしかない訳で整体法ならその可能性があると思い、妹尾(勿論病名等
本当のことは聞かされていない)を病院から誘い出し、野口先生の話を聞かせた。妹尾も
納得し、野口先生の指導を受けることとなった。たまたま私の母が箱根湯本で経営して
いるアパートに空き室があったので退院後そこで療養生活をすることになり、M先生も
同意した。
こうして箱根での闘病生活が始まった。郷里から妹尾のお母さんとお姉さんが駆付けた。
野口先生の操法を受けると、しばらくして四十一、二度の高熱が続く。整体法では発熱は
身体の調整機能と考え、人為的に抑えたりせずにその原因や方向を見極めてスムースに
経過させる。彼はよく頑張ってこれに耐えた。幸いなことにお姉さんも整体に親する理解
が早く、愉気(相手の身体に手を当ててその機能を高める)もマスターし、彼を
バックアップした。高熱は一週間位するとおさまり、動けるようになる。このような波が
三回位続いた。この間に東大病院の検診を受けると、医者が首をかしげる程検査値が良く
なっていた。八月末には野口先生からもうあと一回峠を越えれば良くなると耳打ちされた。
私は毎週末箱根に帰り、妹尾の文字通り身を削る闘病生活を見て、さすがに妹尾だけの
ことはあると感心していたので、野口先生の言葉で不覚にもこれでもう大丈夫と思った。
ところが事態は私の予期しない方向へ進んだ。まず整体を理解し、彼を励まし、愉気の
できるお姉さんが家族のこともあり、一旦、郷へ帰ることとなった。しばらくして、
妹尾から電話があり、会社の人からハリをすすめられ、東京に一室用意してくれた。
ハリを受けながら整体は続けるし、道場にも近くなるし便利だと言ってきた。私は何も
そんなことをしなくてもとは思ったが、ハリならば害がある訳でもないし、妹尾のこと
だから、もうあと一回の波は越えれるだろうし、人柄の良い彼のことを心配する多くの
人がおり、その人達の気持を無視することもないと気軽に考え強く引き留めなかった。
妹尾が東京へ出て数日後、彼の面倒を何かと見てくれている柔道部のT先輩から電話で、
元気を出させるようにぶどう糖注射を打ったところ全身に化膿し動けなくなったとのこと。
野口先生に相談したが、身体の自然と反することをしたので、整体ではどうにもならない
ので医者に見て貰いなさいとのこと。私は事態の意外な進展に茫然とし数日間何も手が
つかない状態でした。
その後、F氏やT先輩の御努力で妹尾は東京医大に入院し治療を受けることとなった。
しばらくして病状がおさまった妹尾にぶどう糖注射をした理由を聞いたところ、彼が
東大病院に入院中、ある人から、一旦良くなるが今度脾臓の部分が痛くなったら助から
ないと言われ、丁度八月末頃から痛みが出て、このままでは駄目になってしまうのでは
ないかと不安感を持ったとのこと。入院中何度も見舞いに行ったが、彼はもう一度退院
できたら、再び整体をやりたいと言ってくれ、私もその機会がくることを願ったが、
その機会はこないまま、昭和四十二年三月十八日ついに帰らぬ人となってしまった。
単に親友を亡くしたというだけでなく、直る見通しがついた友を私の甘さ故に助けること
ができなかった悔が私の胸を熱くするのでした。なぜあの時にもっと強く引き留めなかった
のか、野口先生のあと一回という言葉に一層気を引締めるべきを気を緩めた自分の甘さ。
妹尾が苦しい闘病生活を続けながち、自分の病気に対して抱いた不安感を充分に感知
できなかった自分の鈍さ。等々。一方でどうにもならない宿命のようなものを感ずる
のでしたが、その後、彼のことを思い出すたびに無念さがこみ上げてきました。
私は妹尾に整体をすすめると同時に、メガネをはずしました。近視と乱視があり当時の
視力では目を細めて右目が○・〇七左目が○・一で、メガネをはずすと一m位で人の顔が
やっと識別出来る程度、辞書は目にくっつけて見る位でした。目が悪くなるのは目だけの
問題でなく、肝臓や腎臓、更にいえば身体のバランスが悪いからです。メガネを掛けて
目を保護するよりも身体全体のバランスを改善すべきで、妹尾が闘病する以上、私も
チャレンジすべきと決心し実行した。昭和四十二年の六月から一年間会社から米国留学を
命ぜられ勉学生活を送ったが、メガネを使わず頑張った。一m先でもよく見えない字が
三m位先からにらんでいると何となく分ってくるのでした。目が真赤に充血し、そのうち
白目が黒くなり、毎朝起きると瞼が目脂でくっついてしまい、失明すると嚇された。
妹尾のことを思うとこんなことで妥協する訳に行かないと頑張り通した結果、帰国の
頃にはおさまり、目の方も○・五位迄回複し、日常生活ではメガ毒無しでもそれ程
困らないようになりましたるしかし、身体は非常に疲れやすく、食欲もなく、イライラ
したり、体調が良くないので、昭和四十七年頃体質改善のため断食をやった。日常生活は
いつもと同じで、会社に行きながら、水だけで食欲が出る迄と頑張ったのですが、
十九日目に身体の危険を感じ打切りました。あとから断食の本を読んだところ朝晩熱い
風呂に入っていたのがまずかったようです。あと徐々に一ヵ月位かけ回復させたが、
結果的には頭の回転が鈍くなり、身体の無理もきかなくなったが、イライラはおさまり、
よく眠れるようになりました。
私の周囲の人には大変迷惑且つ不可解な言動が多かったことと思いますが、いつも
妹尾の死にこだわり続けたことが整体法の実践に駆り立て、私なりに体質改善が出来た。
五十才の大台を越えた現在、老化現象はやむを得ないとしても、医者も薬も気にせず
健康に生活出来ていることは、私の心の中に居続けている妹尾のおかげだと思う。ただ
それを一番喜んで貰える妹尾がいないのが淋しいことである。
(昭和三十六年商業学科卒、㈱住友金属工業事業開発本部)

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