| 第1回目:近代科学と精神世界
ある著名な科学者が、“宇宙に意思がある”という題名で講演された。題名から、この先生は精神世界に理解があるのかなと思った。講演の中で、先生は“この世のことは99.99%解かっている。解かっていないのはビッグバンの瞬間のことだけだ”という。講演後の懇親会で、先生に聞いてみた、“気についてどう考えますか”。これに対する先生の返事は、“君い、科学は万人が認めるものでなければならないのだよ。気なんていうのは、英語では言葉さえもないのだよ”ということでした。気を感じる人にはその存在は疑いがないが、今の科学は存在を認めないという。
その科学が要求する客観性とは何だろうか。よく“万人が認める”というが、今の科学の真実など、原子の構造とか、宇宙の構造とか、その道の専門家でもなければ、自ら確認などできるものではない。専門家の間で見解が一致して統一見解になったときに、“万人が認める”ことになるわけだから、“万人が認める”というのは明らかに結果であって、必要な要件ではない。それでは客観性があると認められる要件とは何なのだろうか。このように考えてくると、客観性という前提として、この世の中はすべて物質でできており、物質を解明しさえすれば、誰でもが真実を確認できるという考え方に基づいていることに気が付く。
科学が進展していくときに、常にそれまでの定説を打ち破っていく。近代科学の発展の原点に天動説から地動説への転換が挙げられる。私たちの実感からは、足元の地面が高速で回転しているなんてとても信じられない。太陽にしろ、星にしろ、私たちの周りを回っていると考えるのがごく自然であろう。ところが、真実はこの地球が回転しているというのだ。私たちの感性や意識は頼りにならないが、物質を究明していけば真実が解かるというのだ。ここに物質を見極めるための客観性や再現性が要求される根拠がある。人間の意識とか、精神とかいう主観的なものは物質の真実を明らかにするには不要なものだと排除されたのだ。
ところで、人間の意識や精神はエネルギーを持っていないのだろうか。国際生命情報科学会(ISLIS)という学会では、“20世紀の物質世界を研究対象としたパラダイム(枠組)の成果あるいはその延長ではとても説明できそうにない現象が、意識・精神・心が関与する分野などでは現実には存在している可能性が指摘されている”とし、 “その未知な現象を科学的実証に基づき明確化させ、その特性と原理の解明をめざし、21世紀の科学・技術の新パラダイムを切り開き、科学・技術の革新ひいては人類の平和な文化と福祉の向上へ寄与すること”を趣意としている。この学会の主なテーマの一つとして気の研究がある。たとえば、気功者が気を送ると受け手の脳波が送り手の脳波と同調することが観察されている。送り手から何らかのエネルギーあるいは情報が受け手に伝わったことが明らかである。何が伝わったのか。送り手の手から発しているエネルギーを調べると、遠赤外線を発している。遠赤外線が気の正体かと、気の代わりに遠赤外線を当ててみる。遠赤外線の場合、距離が近いうちは確かに受け手に何らかの影響を与えるが、距離が離れると何の影響も与えない。気の場合はさらに距離が離れても伝わることから気の正体は遠赤外線とはいえない。ISLISの研究によれば、気のような微細なエネルギーを、現在の科学では未だ把握できていないが、人が潜在的に感じ取っていることは明らかである。
物質をどんどん細かくしていくと、その構成要素である電子や素粒子は極微の粒子であると同時に波のエネルギーを持っていることが解かってきた。今まで未解明の人間の意識や精神に関わるエネルギーを表現するのに、この波のエネルギーと関連があるのではないかと、波動という言葉が使われてきたようだ。
このような物質の素の素なるもののことを研究する学問を素粒子論というが、この分野の第一線の研究者である天野仁先生は、“私たちの身体の本当の姿は肉体だけでなくて、肉体に気体状の部分が重なってできており、この部分を『生気体』と呼ぶ。生気体は生命力担当であり、魂や心はその部分に宿り、「見る・聞く・考える・記憶する・送信する」という機能を持ち、多次元時空間にまたがった存在である”と生気体論を唱え、“心や生命に関わる精神界の力を素粒子論的な意味での第五の力(現在の科学では未解明な新しい力)と提唱”している。
ISLISにしろ、天野先生にしろ、近代科学が非客観的だと排除してきた意識・精神・心の解明に取り組んでいるが、物質中心の近代科学の価値観の中に埋没してしまっている精神性をどのようにしたら取り戻せるのか、近代科学の壁は厚い。私たちにとって科学とは何なのか、生命とはどのようなものなのか、『波動』という言葉を通し問題を提起しているといえる。
第2回目:生命活動とは情報活動である
前回は近代科学と精神世界という題で述べたが、物質中心の近代科学が客観性、再現性、普遍性という価値観でもって精神世界を排除してきたが、私たちは『波動』という言葉を通し、精神世界の根底にある生命力、精神性、意識などを今改めて見直そうとしているのだ。
では、その生命力とはいったい如何なるものだろうか。私たちの生命活動を観察してみよう。
まずは私たちの身体の中で働いている生命活動を見てみよう。確かに私たちは外部から食べ物という物質を取り入れ、この肉体を維持している。この消化吸収という作業において、ただ単に食べた物が粘土細工のように身体に付くのではなく、自分にとって必要なものを身体の中に取り入れるために、身体の中のあらゆる器官が連携作業を行っている。消化作業により、身体が吸収できる程度にまで分解される。そのうえで、身体にとって必要なものと必要でないものとが選り分けられ、必要なものが吸収されて、必要でないものは排泄される。ところで、私たちの身体で吸収する機能は腸である。必要な部分が吸収されるといったが、必要だとか必要でないとかいうのを腸が勝手に決めるのだろうか。身体全体の要求を考慮しないで腸が勝手に必要かどうかを判断して吸収したならば、身体全体が必要とするものが吸収されないで、必要でないものが取り込まれる恐れもある。腸が身体全体の要求を理解し、身体が必要とするものを吸収し、必要としないものは排泄することが望ましいのは明らかである。このためには、腸に身体が必要としているものを伝え、腸がそれに応えねばならない。ここに身体の中の機能の役割分担と機能間の連携作業の重要性がある。この連携作業を司るのが脳を中心とした神経系であり、これはまさしく身体内部の情報活動をしているのである。消化吸収作業に限らず、私たちの肉体という物質を維持していくためのあらゆる活動は、ただ単に物質を集め、配給しているのではなく、生命を維持するという目的を実現するために、身体のそれぞれの部分が役割を分担し協力し合うという情報活動をしているのだ。
次に、私たち生命体は、私たちを取り囲む環境とどのような関わりを持っているのだろうか。私たち自身は、それぞれが独立した生命体として独自の活動をしているが、それぞれが単独で存在しているのではなく、集団としてあるいは人類という種として、この地球という環境のなかで生命が生まれてから3十数億年といわれる歴史の1コマとしての生命活動を営んでいる。私たち個人は、所属するいろいろな社会環境の中で、よりよい生活を求めて、お互いに言葉を駆使したりして、コミュニケーションを図っている。また、個人にしろ、社会にしろ、私たちの生存はこの地球という自然環境によって支えられている。この自然環境は常に一定というわけでなく、季節のような周期的なものもあれば、地震のような突然起こるものもある。いずれにせよ、さまざまな自然環境の変化にも適応していかねばならないし、適応してきたから現在がある。このように私たちは、社会環境の中でコミュニケーションを図り、自然環境に適応してきているのだが、この活動を支えているのが五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)である。五感とはまさしく私たち生命体が情報活動をしているということである。更に六感ともいわれる感受性や、気のような情報交流もある。
以上述べてきたように、私たちの生命活動とは、内においても、外に対しても情報活動をしているのである。この情報活動は、顕在意識で認識されているものはほんの一部であり、顕在意識では認識されずに、潜在意識で受け止められ、いわゆる無意識のうちに処理される領域のものの方が圧倒的に多い。特に私たちの体の内部で行われている情報活動は意識にあがる時はむしろ異常の時であり、通常は殆ど意識せずに多くの活動がなされている。
このように生命体の機能は情報活動だとするならば、情報活動の効率性や優劣が生命体としての機能発揮に重大な影響を与えることになる。生命体としての生命力や精神力とは、生命としての力あるいはエネルギーをより良く発揮させることであろうから、生命体としての情報活動が活発でかつ効率性が良い状態が望ましいということになる。
第3回目:情報の特性と生命の価値観について
人類の生命活動が情報活動として実現したものが文明であり、文化である。そのような観点からいえば、近代科学も情報活動の産物であり、結果として人類の情報活動が飛躍的に発展してきたのも事実である。特に近年の情報化は、国際化の動きとあいまって、国と国との境を急速に縮めてきている。
近代科学は以前にも述べた通り、物質中心の科学であり、客観性・再現性を前提としている。今、あなたが机の上にりんごを置いたとする。そのりんごのあるところには、りんごをどかさない限り他のものは存在しない。誰でもが何時でもそこにりんごがあると確認できる。これが客観性・再現性の論理なのだ。すなわち、ある1点に1つの物質が存在するということは、同じ1点に同時に他の物質が存在しないということだ。
それでは情報についても同じことがいえるだろうか。近代科学の産物としての情報化であるから、現在の情報化は当然客観性や再現性が前提となっている。この論理からすると情報にも客観性や再現性があるんだということになる。確かに、テレビには指定したチャンネルの画像が映り、携帯電話には音声が流れる。しかし、テレビで1チャンネルの映像が映ったからといって、その同じ空間に1チャンネルの情報以外のものがないとはいえない。チャンネルを回せば、同じ空間で3チャンネルでも10チャンネルでも映るのだ。また、テレビで携帯電話の音声が取れないからといって、同じ空間に携帯電話の情報がないということにはならない。さらに、今の科学では未解明の気のような情報も存在している。
情報に関しては、ある1点に無限の情報が共存している。情報が確認できるのは、受け手が共鳴することによる。受け手が共鳴しなければ存在を認識できない。従い、情報については有るか無いかではなく感受できるかどうかが問題となる。情報の世界は、物質の世界が前提とする客観性や再現性という価値観とは異なる領域なのだ。
私たち生命体の情報活動においても同様である。私たちは同じ場所に同じように立ち、同じ風景を見ていたとしても、見ているものが全く同じという保証はない。何故ならば、私たちが見るということは対象物の映像を情報として目から受け入れ、それをあらためて脳が映像として投影しているからだ。同じ山や森を見ても、ある人はそこに憩いの場を求める人もいれば、山登りをして山を征服したいと思う人もいるだろうし、別の人は山の材木の価値を計算するかもしれない。このように同じものを見ていても、その人の感受性によって見ている内容は異なっているのだ。このような感受性とはいかなるもので、どのように形成されるのだろうか。
私たちが生きて活動をしていくということは、自らの欲求を満たすべく、常に外に向かって何らかの行動を選択していることなのだ。生きていくということ自体が生命の要求であり、私たちの身体には本能的な身体を維持する機能が備わっている、恒常性維持機能とか自然治癒力とかいわれる働きだ。そして、自らの環境の中でより良く生きていくためには、外の状況を情報として適切に受け止め、どのような選択が望ましいかを判断しなければならない。この身体の中の自然治癒力と外界の情報を適切に感受する感受性とが協力し合って、よりよい行動が選択できる。その行動選択の背後にあるものは、生命体としての価値観=主観であり、潜在的あるいは本能的なものを含め生命体の行動の原点である。
近年、情報化時代に突入したといわれるが、私たちの生命活動が貪欲に情報を求めてきた結果ともいえる。氾濫する情報を私たちはどのように処理していくのだろうか。本人が意識するか、しないかに拘わらず、本人の生命体としての価値観こそが、情報を選択し、生命活動をコントロールしているのだ。ところが、私たちの社会は、物質中心の近代科学によって客観性を追及し物質的豊かさを求めるあまり、主観的な心や精神の問題をないがしろにし、主体性を見失い精神的に自立できない現象を生み出している。特に最近の青少年による犯罪を見ると、事件を起こした子供たちの心の問題として、心の闇というような表現が使われる。確かにこのような事件を起こした子供の心に問題があるのは確かであるが、子供は社会の鏡といわれるように、子供の心を闇に追いやった社会環境を省みる必要がある。
私たちが、心身ともに健全な社会を志すならば、客観性が絶対であるという価値観の呪縛を解き放ち、健全な主観の在り方を求め、多いに論議をし、お互いにより良い人生の獲得に努めるべきである。
第4回目:医療における客観性と主観(=価値観)について
これまで、「生命活動とは情報活動であり、本質的には各個の生命が持っている主観(=価値観)を健全に発揮させることが大切なのだ。」と述べてきた。このような私の考えに、おそらく大多数の人は、「各人がそれぞれの主観でもって主張したらば、千差万別になり、いずれが正しいか決められないではないか。だからこそ、誰でもが納得できる客観性が必要なのだ。現に科学の発展により、医療技術は飛躍的に向上し、その結果、平均寿命は大幅に伸びたではないか。」と反論するに違いない。
確かに、計量と客観の医学ともいわれる西洋医療によって、多くの病が治癒され、特に、結核あるいは感染症等いわゆる急性病や怪我に対する外科手術等に顕著な成果を挙げてきたことも事実である。しかし、一方で現在大きな課題となっている癌や心臓病等成人病あるいは生活習慣病といわれるものへは充分な対応が出来ていないことも事実である。
過日の波動活用分科会において、大阪で東洋医療・漢方・波動医学を看板に掲げ、診療活動を実践されている、中村クリニック院長中村和裕先生にご講演いただいた。中村先生は、ご講演の中で、「現在の西洋医療の診察は、検査は自分でやらずに、検査の専門家が出したデータをもとに病名を決めて、病名が決まれば治療に用いる薬が決まる。多くの場合、この間に患者とのコミュニケーションも少なく、薬が効かなかった場合、薬の所為にしたり、時には患者の体質の所為にする。そこには薬を決めた医師としての自覚も責任もない。本来、対象となる患者にどのような薬が合うのか、それを決めるのが医師の重要な職務であり、それには患者の状態をよく観察し、医師としての主観を働かせる必要がある。主観を働かさない医師だったら存在の必要がなくなってしまうのではないか。」とのご意見があった。客観性の医療は患者を物質として取り扱っているだけでなく、医師サイドの主観をも奪っているのだと、再認識させられた。
それでは客観性の医療のどこに問題があるのだろうか。まずは医療の対象となる疾病が急性病から慢性病に変わってきたことがある。急性病は、伝染病のような細菌によるものは細菌を見つけ出しそれを退治する方法を探し出せばよいし、怪我によるものは怪我の箇所を手術で繕えれば取り敢えずの対応にはなる。ところが、慢性病の場合は、成人病とか生活習慣病とかいわれるように、生命活動の中にその要因が潜在している。人間は遅かれ早かれ所詮死ぬようになっている。年を取った人たちが死ぬ原因を探し出して病気とし、痛んだ臓器を取り替えてでも長生きをするとしたらば、それによって人類が幸せになるのだろうか。
遠い未来はいざ知らず、現実の世では、日本は西洋医療を絶対として国民皆保険で医療システムを構築しているが、高齢化に伴い国民医療費が増大し、今後の対応策が見出せないでいるのが現状である。このような環境において、サトルエネルギー学会の帯津会長をはじめとした一部のお医者さんたちを中心に代替医療あるいは統合医療の主張や実践が行われていることは皆さんご存知の通りです。米国などの先進国では、慢性病対策には西洋医療よりもいわゆる代替医療のほうが効果がある面もあり、更に病気になってからでは医療費が掛かりすぎて負担が大変だということで、病気にならないように未病対策とか健康増進に国民の関心が高まると共に、国としてもその動きを支援していると聞く。
代替医療とか、未病対策というと大概東洋医療がその根底にある。かって、日本では東洋医療が主体であったが、客観性がないとして西洋医療に取って代わられてしまった。それが改めて東洋医療が見直されてきたのだ。慢性病対策には、心や意識への対応が必要であり、本質的に主観を排除している西洋医療よりも、心や意識などの主観(=価値観)を尊重し人間本来の持つ治癒力を重視して回復を目指す東洋医療のほうが効果があるというのだ。
これを、医療を受ける立場から見てみよう。患者は、西洋医療の客観的な診断にすべてを委ね、自分の悪い箇所を薬や手術で治して貰うこととなる。本質的には受身である。これに対し、東洋医療の場合、あくまでも病気の自然な経過を促すために、人間の自然治癒力を最大限に引き出し、トータル・バランスを取り戻すようにする。患者は単に治療を受けるのではなく、自らの生活習慣の改善に努力しなければならない。そのためには、患者本人が「自らの身体を改善しよう」という強い意志に、目覚める必要がある。
このように、西洋医療を客観の医療とすれば、東洋医療は主観(=価値観)の医療といえる。今まで日本では、国として提供する側から客観の医療を推進してきたが、今後について、主観の医療に対しても受ける国民側の選択の可能性を広げる必要があるように思う。
第5回目:自然治癒力の向上による生命力の発揮
抗生物質により死滅される細菌が、いつのまにか抗生物質に対抗する力をつけてくる。ここに生命力の原点を見る。私たちの生命はこの地球上で誕生して以来、変化する環境に合わせ、その生を発展させてきた。私たちの生命の中にある力が私たちの身体を作り、私たちの生命活動を支えている。
昨年12月の波動活用分科会で神之木クリニック院長山本先生のお話を聞かせていただいた。山本先生は「医療と福祉を結ぶ」をテーマに神奈川区に建設された福祉マンションの一角に神之木クリニックを開設、8年前から波動測定器・転写器を診察や治療に活用し、いのちをまるごとみる「ホリスティック医学」の実践にとりくんでいる。山本先生によると、病や症状はその人の身体の訴えだとし、その人のハイヤーセルフ(高次なる存在)がその人に訴えようとしていることを翻訳して鏡のように返してやることが医療の原点ではないかという。西洋医療では身体を機械のように見立て、病や症状は悪いところが有るので薬や手術で修理するということになるが、山本先生のお考えからすれば、病や症状は生命の一つの過程であり、その人に備わっている自然治癒力をいかに活用するのか、どのような姿勢で自分の生命に向き合うのかが、その人の人生を決めていくのだということになる。そこに生命に対する深い洞察がある。
以前、「東京アトピークリニック」で波動測定器・転写器を活用し、アトピーの診察や治療に活用し成果をあげたが、アトピーが治るためには、一旦アトピーの症状(いわゆる好転反応)が出てこないと改善しない。症状そのものが悪いといっていたら、良くもならない。症状そのものを悪いという前に、症状が出てくる生命の有り方に目を向ける必要があるのだ。自然治癒力を活発にするには、その時々の症状にとらわれず、その背後に有る自らの生命力をどこまで信頼するのかということだ。
我が国で薬といわれるものは、国から薬効があると認定されているが、当然副作用がある。そしてその副作用は、薬に明示されているからそれでよいのだろうか。明示されていない一番大きな副作用は、自らの生命力に信頼が置けず、薬依存症になることではないだろうか。最近多くなっている精神異常とも思える犯罪の背景に、私たちの社会が、自らの生命力を活発にしていくことを忘れ、薬や外にその解決策を求めている現状が反映しているのではなかろうか。
プラシーボというといわゆる偽薬のことで、薬の薬効を判定するのにプラシーボ効果では薬効が有ることにならないと判定される。従い、プラシーボ効果では問題にならないといわれる。確かに、緊急を要する場合等いわゆる急性期病には薬効が重要であることは明らかである。しかし、日常の生活において、強い薬の副作用や薬への依存症を考えた場合、プラシーボ効果によって同じ効果が出るならば、むしろその方が良いという判断もできるはずである。プラシーボ効果とは何かといえば、その人の意識の持ち方、価値観や感情によって、自然治癒力の発揚が左右され、病気や症状が変わるということである。もともとそのような機能が私たちに備わっているのだから、プラシーボ効果が出るように、積極的に意識や感情を高めれば、少しでも副作用のある薬への依存を排除できることとなるはずである。
遺伝子の権威者、当学会名誉顧問の村上和雄先生は、陽性ストレス(快い、楽しい、嬉しいなどの陽性の感情)はよい遺伝子を活性化するという研究課題に取り組まれている。生活の中に積極的に笑いを取り入れると、免疫反応に関与する因子の遺伝子発現が多くなり、笑いによる刺激が抹消の免疫細胞に及ぶことが遺伝子レベルで明らかにされたとのことである。
私自身、近視と乱視で視力0.1以下の目を、若い時に眼鏡をはずし、自分の自然治癒力を信じ、努力してきた結果、60歳を超えて運転免許証の眼鏡仕様をはずすことができた。この間、色々なことがあったし、今でも疲れると目が真っ赤に充血する。究極のところ、自らの生命力を信じるかどうかということになる。私は、これまでの実践体験を踏まえ、この生命の中にある力、感受性と自然治癒力を「波動脳力」と称し、これを活性化することを提唱している。(拙著:「知らないうちに強くなる-無限のパワーを生む『波動脳力』」:文芸社発行)
より多くの人が自らのこのような潜在的な力に気づき、目覚めれば、健康観や人生観がより積極的になり、現在の社会が抱えている閉塞観を打破できるはずである。まさに波動という言葉が提起する生命力や精神性の回復こそが今求められているのだと確信しながら、この5回にわたる波動シリーズを終わることとします。貴重な紙面をお借りしありがとうございました。
以上 |